イリヤ・プリゴジン
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イリヤ・プリゴジン/Ilya PRIGOGINE
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ICC インタヴュー・シリーズ 30:イリヤ・プリゴジン
ICC Interview Series 30: Ilya PRIGOGINE
イリヤ・プリゴジン Ilya PRIGOGINE
物理化学者
1917年,モスクワ生まれ.21年に一家で西ヨーロッパに移住し,29年,ベルギーに渡る.非平衡熱力学の世界的権威で散逸構造理論の確立者.非線形,ゆらぎ,自己組織化などの概念を駆使して新しい世界像を提起する著書『混沌からの秩序』は,世界的なベストセラーとなった.47年よりブリュッセル自由大学教授,のち名誉教授となる.49年,ベルギーに帰化.62年よりソルヴェー物理化学国際研究所(ブリュッセル)所長兼務.67年より米国テキサス大学統計力学・熱力学センター所長兼務.非可逆過程の熱力学を体系化し,「散逸構造」の理論を提案した業績により,77年,ノーベル化学賞を受賞.94年,関西文化学術研究都市の“けいはんな”(京都府相楽郡精華町)の最高顧問に就任した.著書に,グランスドルフとの共著『構造・安定性・ゆらぎ』(71年),『散逸構造』(ニコリスとの共著,77年),『混沌からの秩序』(スタンジェールとの共著,79, 84年),『存在から発展へ』(84年),『複雑性の探究』(ニコリスとの共著,93年),『確実性の終焉——時間と量子論,二つのパラドクスの解決』(97年)などがある.2003年5月28日,ベルギー・ブリュッセルで死去.
- インタヴュー構成:
- ・自然が物語=歴史を語るのなら科学者の役割とは何か
- ・人間にとって確実性とは
- ・科学における創造性とは
- ・エレクトロニクスの時代の美の概念・審美性とは
- ・地球上の生命が持つあらゆる可能性について
- ・20世紀で最も興味深い歴史的事象について
わたしはイリア・ブリゴジンです。モスクワで生まれましたが、幼い頃からベルギーに住んでいます。わたしは常に『時間』の問題に興味を持っています。それはコミュニケーションの問題と非常に密接に結びついているのです。われわれは共通の時間を持たなければコミュニケーションできないのです。つまり、あなたの未来とわたしの未来は同じように導かれているという事。これは非常に重要な問題で物理の基本に置くべきだと思います。そして、根本的にわたしの仕事はすべてこの方向に向かっているのです。わたしは化学と物理両方を研究し、ノーベル化学賞を受賞しました。わたしが『時間』を重要な問題と考えるのは、時間の方向性がすべての物理や化学の基礎になっているからです。
■自然が物語=歴史を語るのなら科学者の役割とは何か
歴史の仕組みを理解すること。そして後でこの仕組みに働きかけられるようになることです。それは非常に複雑で、古典的な理論においては、人間が自然を支配する論理でした。それは人間が主要な条件を変えるだけで、別の条件が発見できると確信されていたからです。
古典的な科学は、自然はコントロールの科学であったのに対し、現在では自然は自立できて、われわれの側にコントロールするという意識が薄れました。もちろん、現在でもそういった考えを持っている事は確かで、それに対しては発明や革新という言葉を使ったりもします。ともかく、わたしたちは人間と自然を対立において捉えるのではなく、人間をひとつの根本的な法則を実現しつつあるものとして。つまり創造的で発見的なものを実現しつつあるものとして捉えるようになっているわけです。人間は伝統に調和するものとして自らを見出しているわけで、さらに自然のひとつの現れであるという立場にまでずっと導かれていったわけです。
■人間にとって確実性とは
不確実性が意味するものは、未来の支配力の欠如ということです。すなわち不確実性とは、同時に新たな立場や可能性でもあり、肯定的な面も持っているのです。これまで確実性を提唱してきたのは、非常に悲観的で歴史のもたらす苦難を逃れるために、確実性を欲してきた人たちではないでしょうか。デカルトが神なき確実性を欲したのは、宗教戦争から逃れるためだったと考えられるし、アインシュタインの場合は時代の苦難、つまり戦争や反ユダヤ主義などから逃れるためだったと言えます。結局、逃避の科学だったわけです。アインシュタインが書いていましたが、彼は誰が科学すべきかを自問していたわけですから、その事態は明らかではないでしょうか。彼らは高い山に行って、新鮮な空気を吸い、生活したり、思索したりするのを好む人たちで、街を見捨ててしまうのです。しかし、われわれ科学者はむしろ汚染された街にとどまり、汚染を減らす手助けをしなくてはならないと考えているわけです。今日の科学者は昔とは違い、もはやエリートの活動ではないのです。
科学は現実世界を変革します。ですから、現実世界の外にいることはできないのです。だからこそ科学の役割が論議の的になります。1991年のノーベル賞創立90年祭のとき、科学の役割に関する論議が交わされました。科学とは明日の黙示録だという人もいれば、科学は人類の尊厳を増大させ、希望を与えるものだと言う人もいました。それで投票を行った結果、楽観派がわずかの差で悲観派を上回ったのです。わたしは楽観派だったのですが、その理由は19世紀の科学、技術は不平等を生み出す手段、いわば帝国主義、植民地主義に役立つ道具だったのに対し、今日の科学は拡散の手段であるからです。拡散した科学とは、不平等を乗り越える手段であり、それを可能にする手段であるということです。わたしの考えでは、今世紀の科学は戦争やその他さまざまなことにも関わらず、積極的な発展があり、不平等というものについての考えが変化し、他の文化というものを尊重するようになりました。今世紀初頭のヨーロッパ文化圏に属するものたちは、他の文化の善悪の彼岸にいると信じていたのです。つまり、ニュートンの法則は発見されていたし、古代の機械論もあったし、自分たちは宇宙の根本法則を発見したのに、他の文化圏ではまだ迷信であふれているというわけです。しかし今日では、事態ははるかに錯綜しています。膨張する奇妙な宇宙、その中に自分達がいることに驚いているのです。それで、他の文化圏とも対話は容易になり、文化と文化の根本的な平等性が達成されたのです。
前進は文化の内部にありました。社会の諸階層間のギャップ、断絶は昔よりもずっと穏やかになり、家庭においても変化が現れてきました。さらに一般的な見方をすれば、進歩があったことになる。では、進歩をどのように定義し、どのように理解すれば良いのでしょうか。その鍵のひとつは、いうまでもなく文化へのアクセスの違いでしょうが、それは大幅に増加しています。特にヨーロッパでは失業と結びつけて、外国人排除問題が語られていますが、今ほど人が旅行し、本を読み、テレビやラジオに接している時代はなかったことを忘れてはならない。われわれは再び、エレクトロニクス時代、コミュニケーションの時代がもたらした余波のひとつを被っているのです。こうした見方をした場合重要なのは、「エレクトロニクスの時代、コミュニケーションの時代は新たなヒューマニズムをもたらすのではないか」という問いですが、それはまた別の問題で、コミュニケーションが強化されるのは良いが、それはどのような反作用を生み、創造性を増加させるのか、そうでないのかという問いに答えるのは、実に難しいからなのです。
■科学における創造性とは
科学における創造性は、芸術の場合より少し複雑です。芸術の場合の創造性は、一目瞭然であるといっても良い。モーツァルトが死んでしまったら、新たなドン・ジュアンが生まれるようなことはないと言えるでしょう。でも科学についてはたとえば、観察しようともしまいとクォークは前からそこにあったのだから、創造性などありはしないと言われたりします。しかし、クォークを探求しようとする社会があるならば、そのときこそ創造性が介入してくる、たとえば中国にある種の科学的創造性があったことは間違いなく、非常に複雑な現象が観察され分類されていました。けれども中国では物体の落下が注目されたことがなかったので、力学は作り出されなかった。つまり科学における創造性とは、いわば新大陸に向けて船出したコロンブスのようなものだということです。コロンブスはアメリカが発見できると確信していたわけではなかったのだから、問題は、いかにして彼は出発したのか、なぜ彼は旅立ったのかです。コロンブスが船出するような文明もあれば、船出しないような文明もある。創造性の役割とは、出発点にコロンブスが乗船し、アメリカに向けて出発することができたという事実のうちにあります。科学における創造性の役割とはこうしたもので、それが芸術の創造性とは大きく異なるのは無理もないのです。「マグリット、ニーチェ、アインシュタイン」というシンポジウムに出席した時、マグリットの著作を読んだのですが、非常に面白かった。彼は創造性は本来、驚きから生まれるものだといっていますが、これは科学にもあてはまるのです。とりわけ理論物理学者の場合はなおさらです。ただし驚きにたいしては、二つの異なった反応の仕方があるのです。まずこの驚きをひとつのまとまったものとして捉え、それを分析しようとするのではなく、観て、たとえば普通ならあり得ないところにある物体が置かれていることから生じるような驚き、それ自体を強調する場合がある。マグリットの描く傘と七面鳥や、デキリコの蒸気機関車とギリシャの列柱の組合せがなどがその例ですが、そこで生じる何か神秘的な感情は、疑いもなく科学とは正反対にあるものです。科学では逆にしばしば比較的昔の成果が再検討され、たとえばアインシュタインの重力と慣性の等価原理は、ニュートン方程式において作りあげられた偉大な理論なのです。この場合、驚きとは二つの質料の間の等価性が、しだいに新たな合理性を獲得していくことにあるのですが、同じようにわたしについて言わせていただけるなら、すでに古い問題といえる時間の問題、老化の問題が、神秘の解明の新たな出発点となったのですから、これもまた、芸術と科学の相違を示す例であるといえるでしょう。もちろん科学とは集団的努力の場です。新しい理論を構築する際に、多く知識に依存しなくてはならないのは疑いもない。アインシュタインは、彼の研究とは全く無関係に研究していた数学者たちの成果、たとえばテンソルに関する理論や微分幾何学に依拠しなければならなかったし、わたし自身、自然法則の確立理論を得るためには、日本人やとりわけロシア人の数学者が独自に達成した数学理論が必要だったのですから、そこには集団的努力があったといえるわけです。
さて、当然ここで出てくる問いは、エレクトロニクス時代が創造性に及ぼした影響は何かというものです。これは複雑な問題で、複雑すぎて決定的な意見を申し上げることはいたしませんが、それに答えるのはなぜ困難かといえば、情報力の増加は一方で創造力に大くの材料を与えはするものの、一方でノイズも発生させるのです。ノイズを取り除いて創造的な要素を保持しないとならないのですが、それは新しい世代の科学の教育にとって、大変な能力を要することなのです。エレクトロニクスの時代が、創造性に対して果たす役割を判断するのはとても難しいのです。理由はそこには二つの側面があるからです。まず、確実にポジティブな面はコンピューターです。われわれの時代は直線的ではなく、複雑性の時代であり、コンピューターがなければ、多くの問題は考慮されることさえなかったと思います。今日では、新たな理論にたどり着いた理論物理学者も、まずそれをコンピューターで確かめてみるのです。これは非常に重要なポジティブな面といえる。しかしもう一方には、次第に数を増していく様々な集団の相互作用があって、発想の帰属が曖昧になるだけでなく、受け取る情報の中で、何がノイズで何がノイズ以上のものなのかを判断することがますます困難になってきている情況があるのです。さらに、様々な情報の集まりを前にして、大して意味のないゆらぎにしか至らないという危険もあるのです。これ以上情報が増え続けると、歴史を失った世界になってしまうのではないかと思うことがかなりあるのです。つまりそれは、相場が絶え間なく上昇と下落を繰り返し、歴史について語り得ない、証券取引所のような世界なのです。
■エレクトロニクスの時代の美の概念・審美性とは
現在とは、現実とは可能なものの実現様態のひとつに過ぎないことが分かっています。違いはそこにあります。古典科学においては現実的なものとは、合理的なものであり、現実的でないものは、はじめから非合理かつありうるべきはずのないものといわれていました。一方、今日では様々な分岐点があるために、われわれが手に入れられる回答はたくさんあります。たとえば、われわれの遺伝子コードはある構造を持ち、われわれの反応はある経路を経て生じますが、それは可能な経路のひとつに過ぎないのです。つまりここにはバーチャルリアリティの可能性があるのです。そしてバーチャルリアリティが可能性の領域を拡げるために、エレクトロニクス時代はありうるべき他のモデルを提供することで、芸術概念を豊かにするのではないかと思います。これは疑いもなく豊かなことで、おそらく非常に重要な豊穣化といえるでしょう。
さて、そこで問題なのが、この可能性の領野の拡大が画期的な芸術作品に繋がるかどうかということですが、えーこれは予測し難い。そうでしょう。音楽の場合がそうで、まず始めに音楽の文法があって、非常に形式主義的な作品を生み出したが、そのなかにはたとえばベルクのような作曲家が居て、非常に表現力を持った傑作と呼びうる作品を創った。したがって、そこには結局のところ豊穣化があったことになる。音楽の比喩を続けてわたしのいわんとするところを説明するなら、まず平均率音階が存在し、次に新たな音階が生じたのですから、バーチャルリアリティのようなものだということになりますね。バーチャルリアリティは可能性を拡大し、拡大した可能性は画期的な芸術作品を生み出すことがあり得るのです。だから、エレクトロニクス時代は美と創造性の概念を拡大してくれるのだろうと思っているのです。遺伝子のコードというものがある。だがそれがあり得るべき唯一のコードであるかどうかは分かりません。もし他の惑星に生命が見つかったとしたら、彼らがわれわれと同じ遺伝子のコードを持っているとみなすことができるでしょうか。われわれはかつて思っていたよりも、はるかに複雑で驚異に満ちた世界を前にしているのであって、こうした驚きはわれわれの時代だけでなく、確実性の終焉に特徴的なものなのです。それはコペルニクス以来、惑星を中心として考察されていた宇宙が、まず無限なものとなり、次いで有限になったあとで、こんどは膨張しつつあるものとなりました。ビッグバンという始まりが考え出されました。ひとつのビッグバンがあるなら、別のビッグバン、別の宇宙があってもかまわないし、ビッグバンの継続というものがあってもかまわないではありませんか。どんなかたちであれ、遺伝子のコードがあるならば、別の遺伝子コードがあっても良いはずです。たとえこうした可能性を実現する道が無くとも、ある意味でエレクトロニクスとはこうした可能性を窺わせてくれるものなのです。
■地球上の生命が持つあらゆる可能性について
わたしの考えでは、生命とは物質の変動であり、生物と無生物の間は絶対的な区別は設けられません。物質から生じる一連の不安定性の結果として生命が生じたのですが、それがどのような種類の不安定性であるかについては、現在のところほとんど何も分かってはいません。その他の説明としてはカウフマンの著作がありますし、ベルギーのノーベル賞学者、クリスチャン・ド・デューブの『生命の塵』という著作もあって、いずれにおいてもわたしとは異なった見解が展開されているのですが、やはり実際のところ、われわれはほとんど何も分からないと言わねばならないでしょう。変動のメカニズムについてはほとんど知られていないのです。XX(22:28)についてのちょっとしたモデルはあるにせよ、それもごくごく単純なケースのカリカチュアでしかないといった情況です。20世紀末において科学は終わりにさしかかったのではなく、科学は始まったばかりだということを、科学自身が納得しなければならないというべきでしょう。こうしたことがその理由のひとつとしてあるのですが、さらにいえば、とりわけ高エネルギー物理学者のなかに、総合理論の完成は目前であり、完成した暁にはそれは神の摂理となるだろうなどと書くものがいるからなのです。わたしにいわせれば、そんなのはどうしたって全く不完全なものでしかない。なぜなら原理的と称する物理学は可逆的な現象にしか関心を払わず、本質的に決定論的な現象にしか興味を持たないからです。物理学が非常に興味深く、重要な前進を遂げたことは事実で、その成果を減ずることなど誰も考えてはいません。だが、総体としての世界とはそのようなものではありません。たとえば、惑星のシステムは単に惑星の運動というだけでなく、科学の対称でもあり、生命を含むものなのです。古典的な科学は原理的なものとそうでないものの区別を設け、原理的でないものは現象学に委ねられ、われわれも現象学的になってしまったのです。しかしこれは明らかに矛盾以外のなにものでもありません。こうした情況では、物理学、科学はなによりもまず不確定な、変動し進行していく現象こそ対象としなければなりません。われわれはまだ黎明期にいるのであり、計画を完成したというより、計画に取りかかったばかりなのです。
■20世紀で最も興味深い歴史的事象について
問題は20世紀という言葉で、何を意味するかということではないでしょうか。そうするとこれはかなり物議を醸し出す質問になる。20世紀には第一次世界大戦や第二次世界大戦のような恐るべき破局があったと同時に、前に述べたように平等性の概念の進歩もあった。ならば、この両極の調停をどうすればよいのかです。わたしには建設的な方向で20世紀を定義しようとする傾向があって、先の戦争はむしろ過去の遺物であり、われわれは現在、移行期にあるというのがわたしの立場です。それは人間関係において、さらなる理性というべきものが見出される移行期です。今日では、領土を拡大するなどということは、もはや問題にならない。ヒトラーの敗北を決定的なものにした、ドイツとロシアの戦争のことを考えてみると、もともとは植民地を得体というヒトラーの欲望から欲したことであり、つまるところ人間の不平等性という考えに基づいていたわけです。こうした考えは、現在のわれわれのものの見方にはまったくそぐいません。だからすべてを差し引きすると希望が残っていて、特にコミュニケーションの面で希望があるという印象を抱いています。確かに過去は血塗られていたし、暴力が吹き荒れていた。しかしだからこそ歴史は、われわれの大いなる希望ではないかと思うのです。もちろんわたしは予言者ではないのですから、これはあきらかにひとつの希望にすぎません。でも、過去20年間になされた多くの未来学なるものをご覧なさい、その悲観的予測はことごとく誤っていたではありませんか。わたしはローマクラブの会員ですから、わたしも罪の一端を担わなければなりません。ローマクラブがかつて出版した『成長の限界』という本によれば、今のわれわれは資源不足に悩み、飢饉にさいなまれていることになっています。しかし、予測は実現しなかったといった方が良いでしょう。『成長の限界』が出版されてもう25年になりますが、人間の創造性の方が思った以上に大きかったということです。今日の中国の人口は約12億人ですが、たとえば人口が約2億人しかなかった明の時代よりも、人々の暮らしぶりはおそらく良くなっているはずです。わたしは創造性と創造性の拡散があるがゆえに希望をいだくものですが、もちろん宇宙とは構築であるといったからには、すべては政策に拠っていることは認めます。でも、そこに希望があることに変わりはありません。不確定性を考慮し受け入れるべきだというのも、古典的な科学が相手にしていた世界は、すでに過去のものになってしまったからなのです。古典経済学の学説は古典物理学の限界に対応していましたが、今日では非線形性や変動、分岐に基づいた新たな経済学が起こりつつあります。一つの文化の分裂という現象もあります。こうしたことが政治の分裂の危機を提言させ、もう少し理性的な基盤の上に政治を打ち立てることに役立つのかどうか、それはこれからの問題です。われわれは合理性即確実性という等式が成り立たず、非合理なものが無知に結びつけられることの無い、新たな合理性に向かう途上にあるわけです
インタヴュアー 港 千尋

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